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プロフィール
ドジヒコ
ドジヒコ
とよの町で桃・梨・リンゴといった「善光寺平のくだものたち」を作っています。
いわゆる「アラフォー」の世代となりました。
都内での百貨店でのアパレル勤めから、20年ぶりの故郷長野で日々悪戦苦闘しています。
桃・梨・りんごと善光寺平のくだものを中心に、自然にやさしい農業のことを中心に見習い修行中の感じた出来事を随時アップしています。
目下の悩みは、ちょっと食べすぎかなあ・・・・。
お酒も美味いから、ドンドン飲んでしまうし・・・・・・。
空気・お水・食べ物、信州のものは美味しいです。
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2008年01月13日

小布施の脛石。千曲川 その2

小布施橋を豊野方面から渡ると、山王島の交差点となり、まっすぐに行くと、小布施の町内、右折すると須坂方面に向かいます。左折して100メートルくらいでしょうか。右手に「神農社」という小さな神社があります。
その神社の中にあるのが、この「脛石」です。
江戸時代半ば辺りから、千曲川に船を通わせ、新潟の物資を千曲川をつかい、運ぶ動きが出てきます。そのことは、北国街道の街道筋を中心に、陸路の通運が千曲川の水運にといって変わることですから、「猛反対」され、何度となく、流産したようですがようやく許可され千曲川の水運の歴史はスタートします。
その千曲川の水運をつかい、新潟を中心とする「塩」などの物資を運んだのが高井家のようです。ただ、この許可された船便を使ったのか、船便をチャーターして、新潟から塩を運び込んだまでは、まだ調べていません。
「脛石」の碑文によると、江戸の頃、稲作の終わった秋口に新潟から、千曲川の船に乗り、出稼ぎに来たお百姓が、この脛石に乗り、「脛」を見せ、脛の太さや細さ等の具合によって、冬場の出稼ぎ現場をきめられたとあります。江戸の頃には、川東では、菜種栽培が盛んだったようで、菜種は、江戸期にランプ用の油として、また肥料として重宝されたようですが、まだ菜種の咲く春には早いような気もしますし、製糸の町「須坂」が賑わいを見せるのは、日本の産業革命がスタートする頃ですから明治の半ばあたりから、須坂の町は活気付いたのではないかと思います。
そうすると、秋口に脛石で選別された、新潟のお百姓さんたちはどこで働いたのかなあ??と思うのです。小布施に4件もあった造り酒屋さんかなあ?造り酒屋さんなら、酒の仕込みは、11月頃から始まり、北信濃の厳冬を通して、働けますから。
菜の花が一面に咲き、ノンビリとした冬から春を過ごした、信州北信濃の田舎のように思っていましたが、まさか江戸の頃から、新潟からお百姓が来て、人足市場があったとは・・・・。







善光寺平のくだものたち リンゴ・桃・梨 

「完熟」&「完熟」の 「完熟サンふじ」
信州北信濃 坂爪農園 信州ギフト  


Posted by ドジヒコ at 10:03Comments(0)