2011年01月25日
「時代の流れ」・・・・・
「時代の流れ」を感じるものが
2011年の今、目にすることが出来る。
一つは、大正時代に
長野市村山と須坂市村山に架けられた
鉄道・道路併設橋の緑色の「村山橋」が
いよいよ全て撤去を迎える。
大正時代といえば、
須坂市は、岡谷と並ぶ製糸王国信州の
一大拠点であった。
村山橋が架かり
須坂市と吉田駅(現北長野駅)が結ばれ
須坂で生産された生糸は、
横浜を経由して、アメリカにわたり
ストッキングなどアメリカの消費文化の一翼を
担うこととなる。
さぞかし、村山橋の架橋と鉄道開通は
一大快挙であったことであろう。
しかし、この村山橋架橋によって
当時、「時代の流れ」を
蒙ったのがわが町「豊野駅」であった。
村山橋架橋で
それまで須坂の生糸を鉄路を使って
横浜方面に送り出すために
国鉄の豊野駅が北信濃の玄関口として
膨大な貨物量を取り扱い
長野県下でも5本の指に入るほどであった。
また、豊野は、須坂・山ノ内方面への
「奥信濃の玄関口」として、
当時まだ珍しかった「乗り合い自動車」が走り
一世を風靡していた。
極端な言い方をすれば
村山橋と、それに伴う長野電気鉄道開業により
豊野駅は「時代の流れ」の波をもろに受け
急速に寂れていったのである。
そんな「時代の流れ」を興した村山橋が
大正の時代から昭和・平成と
北信濃のの陸運の一翼を担い
「新村山橋」にバトンをタッチし
今撤去されている。
もう一つは、千曲川にかかる
北陸新幹線の豊野・中野間の架橋である。
「時代の流れ」は、
高速鉄道網を東京から裏日本の金沢に
横断して伸ばし、
千曲川の橋げたに
近代的な橋を渡しているのである。
大正時代に架けられた橋の撤去と
平成の世の近代的な方法による新橋の架橋・・・・・。
去り行くものとデビューするもの・・・・。
さて、この「時代の流れ」は
果たして何を興すであろう・・・・・??
一つ一つ撤去される旧村山橋

近代的なクレーンも無かった大正の世で
巨大な鉄骨橋を架けられたこと自体が
一大快挙であったはずだ。

鉄橋が撤去され、残された橋げた。
何度か経験したであろう暴れる千曲川
にびくともせずに
北信濃の交通を担ったことに
敬意を表したい。


あと一歩・・・・・
千曲川にかかる新幹線橋
中野~豊野間

左の山の腹部のかまぼこ状のトンネルに
橋が架かりいよいよ橋として完成である。

2011年の今、目にすることが出来る。
一つは、大正時代に
長野市村山と須坂市村山に架けられた
鉄道・道路併設橋の緑色の「村山橋」が
いよいよ全て撤去を迎える。
大正時代といえば、
須坂市は、岡谷と並ぶ製糸王国信州の
一大拠点であった。
村山橋が架かり
須坂市と吉田駅(現北長野駅)が結ばれ
須坂で生産された生糸は、
横浜を経由して、アメリカにわたり
ストッキングなどアメリカの消費文化の一翼を
担うこととなる。
さぞかし、村山橋の架橋と鉄道開通は
一大快挙であったことであろう。
しかし、この村山橋架橋によって
当時、「時代の流れ」を
蒙ったのがわが町「豊野駅」であった。
村山橋架橋で
それまで須坂の生糸を鉄路を使って
横浜方面に送り出すために
国鉄の豊野駅が北信濃の玄関口として
膨大な貨物量を取り扱い
長野県下でも5本の指に入るほどであった。
また、豊野は、須坂・山ノ内方面への
「奥信濃の玄関口」として、
当時まだ珍しかった「乗り合い自動車」が走り
一世を風靡していた。
極端な言い方をすれば
村山橋と、それに伴う長野電気鉄道開業により
豊野駅は「時代の流れ」の波をもろに受け
急速に寂れていったのである。
そんな「時代の流れ」を興した村山橋が
大正の時代から昭和・平成と
北信濃のの陸運の一翼を担い
「新村山橋」にバトンをタッチし
今撤去されている。
もう一つは、千曲川にかかる
北陸新幹線の豊野・中野間の架橋である。
「時代の流れ」は、
高速鉄道網を東京から裏日本の金沢に
横断して伸ばし、
千曲川の橋げたに
近代的な橋を渡しているのである。
大正時代に架けられた橋の撤去と
平成の世の近代的な方法による新橋の架橋・・・・・。
去り行くものとデビューするもの・・・・。
さて、この「時代の流れ」は
果たして何を興すであろう・・・・・??
一つ一つ撤去される旧村山橋
近代的なクレーンも無かった大正の世で
巨大な鉄骨橋を架けられたこと自体が
一大快挙であったはずだ。
鉄橋が撤去され、残された橋げた。
何度か経験したであろう暴れる千曲川
にびくともせずに
北信濃の交通を担ったことに
敬意を表したい。
あと一歩・・・・・
千曲川にかかる新幹線橋
中野~豊野間
左の山の腹部のかまぼこ状のトンネルに
橋が架かりいよいよ橋として完成である。