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プロフィール
ドジヒコ
ドジヒコ
とよの町で桃・梨・リンゴといった「善光寺平のくだものたち」を作っています。
いわゆる「アラフォー」の世代となりました。
都内での百貨店でのアパレル勤めから、20年ぶりの故郷長野で日々悪戦苦闘しています。
桃・梨・りんごと善光寺平のくだものを中心に、自然にやさしい農業のことを中心に見習い修行中の感じた出来事を随時アップしています。
目下の悩みは、ちょっと食べすぎかなあ・・・・。
お酒も美味いから、ドンドン飲んでしまうし・・・・・・。
空気・お水・食べ物、信州のものは美味しいです。
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2008年01月31日

鳥居川の周辺で。

鳥居川を挟んで、手前側に上浅野遺跡があります。縄文時代前期の遺跡です。川の向こうの母校豊野東小学校の校庭には、立石が丘(たてしがおか)遺跡があります。
鳥居川をはさみ、上浅野遺跡と立石が丘遺跡。それぞれ縄文人が住んでいたわけで、両遺跡から縄文土器が多数発見されています。
太古の昔、縄文人たちは、縄文土器という「器」を使うことによって、従来の火による「焼く」という調理方法に加え、「煮る」という調理方法を得ました。
この「煮る」という作業によって、縄文人たちの食生活は、かなり向上したことでしょう。

千曲川に鮭が上ってきたわけですから、もちろん支流の鳥居川にも鮭は溯上してきたでしょう。
鳥居川で鮭を捕まえ、土器を使って煮たりして食べたのかもしれません。裏には、山がありますから、どんぐりなど木の実も採集してきて、鳥居川で灰汁抜きをして、土器で煮て食べたのでしょう。

「縄文」という太古の昔から、この鳥居川周辺で人々が、生活していたわけです。
今も昔も、鳥居川は戸隠山麓から流れ、その周りで私たちは今暮らしています。
遠くに見える、「高井富士」の眺めは縄文の頃と比べると幾分変わったでしょうか。
雪が晴れた日には、縄文の昔も、高井富士が奇麗に見えたことでしょう。




赤い屋根が小学校。校庭が遺跡で、よく校庭から土器の破片が出てきました。
小学校の奥が、奥信濃の名山高社山こと「高井富士」



上浅野からは三国山脈も見えます。下の橋が掛かっているのが鳥居川。鳥居川を挟んで、縄文人の生活が営まれていました。




鳥居川を挟んで、すぐ裏手に山があります。
子供の頃は、アケビなどとって食べたものです。
縄文の頃も、「採集」をしたことでしょう。



善光寺平のくだものたち リンゴ・桃・梨 

「完熟」&「完熟」の 「完熟サンふじ」
信州北信濃 坂爪農園 信州ギフト  


Posted by ドジヒコ at 09:38Comments(0)

2008年01月30日

雪の1日。

昨日は、終日雪降り。子供の頃は、雪が降ると楽しくて仕方が無く、親が止めるのも聞かずに、ソリを持って土手にそり遊びに出かけた。
ゲームで遊ぶ機会が多くなったのか、今学校帰りだろうと思われる頃にも子供たちの姿は見えない。
時代の流れといえばそれまでであるが、雪国に生まれたのだから、雪合戦をしたり、雪だるまを作ったり、雪とふれあってほしいと思う。

信州北信濃の雪降りのある日のほんのひとコマである。


深々と降る雪。


リンゴ畑にも雪が。今年はそんな降雪が無いため、雪の重みで枝が折れるというような心配は無さそう。


雪の中、豊野温泉には、温もりを求めて多数の湯治客が。
渋温泉・湯田中へ行かなくとも、湯につかれる事で、随分と楽になった。


翌朝は、雪が晴れる。雪の中、スズメはどこで過ごしていたのか?
元気よく、姿を見せるスズメ。残しておいた柿の木の実もすっかり無くなり、スズメがどうやって暮らしているか心配になる。


たまねぎの苗もすっかり雪に埋まってしまった。
春雪解けまで、雪の中で、辛抱して寒さに耐え、
春の訪れと同時に、雪解け水を吸って、一気に大きくなっていく。






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2008年01月29日

火を防ぐ信仰

近くのお寺「宝蔵院」に行って、和尚さんの田中さんにお話を伺ってきました。
「宝蔵院」は我が家の檀家のお寺ではないのですが、近いためよくお経を読みに来ていただいたり、代々「世話人」という役割を我が家で仰せつかっていて、ちょくちょくお話を伺います。

宝蔵院では、春に「火防大日如来」のご開帳があり、火除けの祈願が行なわれます。
「火除け」というと、「秋葉神社」を思い浮かぶ方も多いかもしれません。
権堂のイトーヨーカドーの脇の「秋葉神社」も火除けの神です。
市内にも秋葉社は、長野市長沼を始め結構あるようですが、豊野での「火防信仰」は、このお寺「宝蔵院」の火防大日如来です。
江戸の頃から、火は今以上に大敵でした。
「明かり・食物を作る・暖を取る」
以上のことを、遠い昔から、直接「裸火」を使用することで、得ていたわけですから、火事は、今以上にあったはずですし、ひとたび火事が起きれば、現代のように「防火」建築や消防車など無かったわけですから大変であったでしょう。
そういった意味でも、「火を防ぐ」「火を大切にする」ということは、庶民の間では日々欠かせなく、そ守ってくれる神仏を信仰することは、庶民には欠かせなかったことです。
我が家では、今でこそありませんが、祖母が生きていて元気な頃は、台所横に「釜戸」がしつらえてあり、そこで直接リンゴの木を伐採した「薪」を使って、くべ、朝のご飯だけ炊いていました。
中学生の頃まででしょうか?風呂も薪で沸かしていた記憶があります。
コタツも、春3月に剪定で伐採したリンゴの木を燃やして「炭」にする「炭焼き」を田んぼで行い、その炭を使っての「炭火コタツ」でした。

昭和の末期の我が家でさえ、これほどでしたから、昔から今以上に「火」にかかわる時間が多かったわけです。
この「火防大日如来」のことは、このご開帳が春、4月23日に行なわれますのでまたご案内したいと思います。

この宝蔵院の「火防大日如来」の信仰や、秋葉神社の「火防信仰」など、北信濃の「火防信仰」については、過日ご案内した「日本の明かり博物館」の亡くなってしまったのですが、学芸員であった山崎ます美さんが詳しく本を書かれています。
大変興味深いお話が多数ありますので、是非ご覧ください。
「日本の明かり博物館」で販売されています。


宝蔵院


火防大日如来の「宝蔵院のお札」
このお札は、神棚でなく、火のそば、現在の我が家は、台所に貼ってあります。




山崎ます美さんの遺稿集。
北信濃の「火」に関する民俗が書かれています。
2,500円、小布施の日本の明かり博物館で購入できます。





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2008年01月28日

微笑ましい土人形。

農閑期を利用して、県立博物館に、「信濃の人形-雛人形と郷土人形」展を見にいく。寒さ厳しいが、コンビニに行くと、「恵方まき」はいかがですか?と問われるようになった。「恵方まき・節分」ももうすぐ、寒さが厳しい北信濃にも春がやってくることを感じる。
春といえば、「雛人形」であり、須坂市の展覧会では、800体もの人形を飾った段飾りが展示されているそうである。また同須坂市内の田中本家の雛人形の展示も待ち遠しい。
でも、まあ「雛人形」といっても、段飾りが流行りだしたのは、大正期、デパートがその仕掛け人のようである。生糸輸出に代表される好況日本では、県立歴史館の田中平八の雛人形のような、余りにも高級な段飾り雛人形も当時から、流行こそしたものの、庶民の間では、所詮高嶺の花であったようだ。

私の母・叔母の女の子が二人誕生した、戦時戦後の我が家では、とてもではないが、段飾りの雛人形は購入できなかったようである。お雛様・内裏様と、裃人形等3人官女程度。それも、毎年少しずつ買い足していったものらしい。
祖父の妹夫婦が満州から引き揚げてきたり、戦後の混乱の中では、食べていくのが精一杯で、とてもそんな段飾り雛人形を購入する余裕は無かった。

庶民の間では、県立歴館でも展示しているが、中野市に近い、このあたりでは、「土雛・土人形」がもてはやされたようである。
中野市発祥のこの土雛は、安価で段飾りなどとてもではないが購入できなかった庶民にもてはやされた。まあ、単に「雛人形」としてもてはやされただけではなく、庶民の家庭での「置物・床の間の飾り物」の役割を担っていたようだ。

偶然だが、我が家にも中野の土人形があった。
恵比寿様と大黒様の土人形で、「奈良久雄」作。とあるから奈良家のものである。
そのほほえましい笑顔の人形に思わず「ホッ」としてしまう。
段飾りの立派な雛人形でなくとも、「土雛」といった素朴な土人形を愛でることにより、桃の節句を楽しみ、季節を感じ取った庶民の生活の仕方に敬服する次第である。

微笑ましい我が家の土人形。
インド・中国・日本の神仏混合の象徴の七福神信仰
を探ってみるのも面白い。
飯山市には、七福神巡りもある。
またご案内したいと思います。


恵比寿様。


大黒様




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2008年01月27日

長野灯明祭りの前に是非!!

長野灯明祭りが、来る2月9日から善光寺を中心に、中央通はトイーゴの辺りから開催されるようです。
昨年、僕もほんのわずかですがチラリと、善光寺境内を見てきました。
とても幻想的で美しく、昼間の賑わいとはまた違った意味で、善光寺の美しさを見ました。

明かりといっても、太古の昔から中世に掛けて庶民は、火を「ひで石」という石の上で、松など燃えやすいものを燃やして得ていたようです。
その後、エゴマなどいわゆる「植物油」を原料に、明かりを取るようになり、これが、江戸の中ごろになると、菜種油を使っての、「行灯」が登場します。
菜種油は、前々からご案内しているように、小布施はもちろんですが、千曲川沿岸部一帯で栽培されていて、遠く江戸まで信州北信濃の菜種油は、運ばれ江戸の町の庶民の夜を灯すこととなります。


こんな具合のお話が、豊野町の隣の小布施の竹風堂本店の隣にある、「日本の明かり博物館」で楽しめます。
小布施のメインストリートの中でも一番中心の、枡一市村酒造と竹風堂の辺りですからすぐにわかります。
ぜひ足を運んでください。
歩いて、2~3分のところに、北斎館もあります。


長野灯明祭りの前に、是非、「日本の明かり博物館」で明かりの歴史調べてみたらいかがでしょう?
日本発の石油会社が、長野県で誕生したなど初めて知ることも多いと思います。
灯明祭りをより一層お楽しみいただけると思います。

スーパーで、「長野灯明祭り公式ブック」なるものを見つけました。
結構、商店街でも様々なイベントを繰り広げるようです。
今年は、去年にも増して、この灯明祭り楽しみたいと思います。


日本の明かり博物館。
入場料は、500円。お子様もお楽しみいただけます。


写真は、博物館の向い側の枡一市村酒造場。
小布施のこの辺りでは、ほかに、松葉屋、高沢酒造と3件もあるので、寒しぼりの今は、この時季ならではの新酒が楽しめます。



スパーで無料配布されていた「長野灯明祭り」公式ガイドブック




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2008年01月26日

鼈甲色の野沢菜

野沢菜が鼈甲色になってきました。
12月の初頭に漬けたものです。
この時季、寒さが一番厳しくなると、外に出してある野沢菜の漬けた樽が凍みて、中に漬け込んである野沢菜が「凍ります」
お菜全体は凍らないのですが、ところどころに氷のかけらが入っています。
熱いご飯をほおばりながら、氷がついた野沢菜を口に含むと、野沢菜の周りについていた「氷」「シャリ シャリ」と歯に触れます。
この凍った野沢菜を口に含みながらの熱いご飯はたまりません。
この時季ならではのいただき方です。
この後、野沢菜は、3月くらいまで頂き、余った後は細かく刻んで、「鰹節」と一緒に炒ってこれまたご飯の上に降りかけて頂きます。
春になり、北信濃名物の菜っ葉が登場するまで、なんだかんだで野沢菜をいただくのです。

餅も、大分年末に搗いてから、時間がたちました。
特別に保存料など添加物は一切入れていないので、いくら寒いとはいえ、いい加減この時期になると餅に「カビ」が生えてきます。
このカビを生えた餅を、使っての料理方法は、南北に長い長野県では様々な方法があるようですが、豊野町浅野地区辺りでは、洗って
アラレにするのが一般的です。もちろん、洗った後、また焼いて「アベカワ」にしたり通常通りいただきます。
なお、このあたりでは、積雪が多いからでしょうか、「凍り餅」の習慣はありません。
最近は、保存料が入っていたり、ビニールに覆われていたりで餅のカビはなかなか見かけませんが、2月にはいる前の「寒中」ならではの風物詩のように思えます。

因みに、餅のカビは、洗ってもかび臭いです。カビは健康上よくないのですが、たまにかび臭い餅を焼いていただくと、「もうこんな時季なんだなあ」と痛感すると同時に、昔子供の頃に、おやつに祖母がカビを取って焼いてくれた餅の記憶がよみがえります。

風習・陋習・伝統様々な庶民の生活の知恵があります。
これを次世代に伝えていくものか否か難しいところですが、庶民が、戦前、はたまた江戸の頃から受け継ぎ伝えてきた、こうした「営み」には敬服すると同時に、僕の限りでは、楽しみたいと思っています。



鼈甲色になった野沢菜。
添加物等は一切ありません。
自然の中の「酵母」と空気が醸し出してくれます。
日本酒もしかりです。
日本酒も、。この厳冬の中、仕込みと絞りに追われています。




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2008年01月25日

3つの歴史。

この3枚の写真に共通のことです。
1つは、長野駅前の「如是姫」像。善光寺縁起の「月蓋長者(がっかいちょうじゃ)」の子供で、病気を治癒してくれた善光寺如来に感謝して、今も善光寺の方角に向いています。
今ひとつは、善光寺境内の6地蔵です。
そして最後が、豊野町浅野にある明円寺の鐘撞き堂です。

3点で共通しているのは、戦時中に軍需用の金属の不足から金属類回収命令が出され、半ば強制的に金属類が回収されていった頃に、金属供出の名の下に駅前の「如是姫」も善光寺境内の六地蔵もそして庶民の信仰の拠り所の寺院の梵鐘も回収されていきました。

戦時中は、各家庭の火鉢・火箸・蚊帳の類まで供出の対象となったようです。もちろん、田舎には必ずあり、無くてはならない「火の見やぐら」の「鐘」まで最終的には回収されていったそうです。
戦後如是姫と六地蔵は新しい如是姫像と六地蔵に鋳直されましたが、明円寺の梵鐘後は、今もそのままで、鐘が無いまま現在に至っています。
当時は違った意味で、銃後の世界にも戦争の波が押し寄せていました。僕は、直接経験はしていませんが、長野県の歴史を紐解くと、先にもお話しましたが、満洲開拓移民移出日本一となったり、戦時中には、多くの疎開の児童がやってきたりと、戦争に振り回された庶民・子供たちの歴史があります。
庶民の子供たちの「街の一寸した歴史の面影」を少しづつですが、探索してみたいと思います。


梵鐘でなく、ドラム缶が吊るされたままの明円寺の鐘撞き堂。


善光寺境内の六地蔵。今のものは、戦後建立されたもの。



駅前の2代目如是姫。
戦時中は、初代如是姫が建っており、その下は防空壕だったそうです。





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2008年01月24日

雲上殿から思ったこと。

友人が、長野市の信濃美術館で開催の市の絵画展に出品しているというのでようやく重い腰を挙げて、行ったところ、「市の絵画展」は日曜日で終了とのこと。
やむなく、信濃美術館では、東山魁夷館を見る。
ここまで来たのだからと思い、若里の「水野美術館」も見学。
絵には造詣が無いので、学生時代に勉強した日本美術史の記憶を思い出しつつの見学であった。
しかし、難しくてよくわからないのが、本心である。

まあこれから美しいものといえば、櫻かなあと思いつつ、雲上殿へ。
雲上殿は、善光寺の裏の山の中腹にある慰霊的な場所。天気があまりよく無いため、展望も今ひとつであるが、晴れたときには、善光寺平の北部が一望できる。
最近郷土史の本をやたらと読んでいるのだが、昭和天皇も雲上殿に登り、「松代の大本営」予定地はどの辺りか当時の林知事に聞いたそうである。
「松代大本営」予定地は、複雑な事情も絡まり現代史の縮図であるが、何とか春の畑仕事がスタートするまでに行ってみたいと思う。
因みに松代は、一昨年来からブームとなった梯久美子さんの「散るぞ悲しき」に登場する硫黄島の作戦を指揮した、栗林忠道中将の故郷でもあり、明徳寺であったか??菩提寺となっている。

まだまだ長野は奥が深い。
とてもやそこらでは、18歳以来の20年近いブランクは埋めきれないと思う。徐々に長野県人として馴染んでいきたい。


櫻咲く前の善光寺雲上殿。
高校時代はよく体育の授業でここまで走らされました。





善光寺平の町並み。中央は善光寺。




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2008年01月22日

梨畑の様子。1月。

梨畑の様子です。
信州での「梨」は南信地方が結構有名ですが、どっこい北信地方のここ豊野町でも栽培されています。
9月から、10月末くらいまで収穫となります。
甘い「幸水」 甘さと酸味のバランスが良い「豊水」
そして長野県オリジナルブランドの「南水」
今年は、「あきづき」という新しい品種もご紹介していく予定です。
赤ん坊の頭くらいの大きさの梨で、とにかく「甘い&甘い」
是非、お試しください。ご進物にも最適です。

昨年度に、棚伝いに結えた枝がかなり伸びてきました。
剪定をして、枝を整えた後、まっすぐに伸びている枝を、棚に結びつける「棚付け」という作業を3月くらいに行ないます。

まだ「芽」は出ていないようですね。
桃・梨・リンゴの中で梨は、2番目に早い収穫。

ネコヤナギの芽もまだ出揃っていないのですから、梨の芽もまだですね。
寒さが厳しい中でも梨も桃もリンゴも成長しています。

これから2月にかえ寒さがより厳しくなるようです。
でも、これからが「剪定」作業が本格化。

大嫌いな「ももひき」を遂にはかなければ、外での作業は出来ないかも。

雪も降らず、快晴ですが寒さが厳しい信州北信濃の 梨畑でした。


伸び放題の梨の枝。
剪定した後、小枝を棚に結えます。







芽はまだ出ていません。




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2008年01月21日

「スティックセニョール」厳冬に元気な野菜 是非お試しあれ!!

冬場になるとどうしても「「青物」が不足します。
12月頭、雪が降る前に「白菜」を結構な量を収穫し、その後、暫く「干し」少し乾燥させたのち新聞紙にくるみ、倉庫で保存、少しづつ食べています。大根や葱は、収穫後土の中に埋め、それを少しずついただいています。
そんな中にも元気な野菜が。
「スティックセニョール」です。別名「茎ブロッコリー」
ここ数日寒さが厳しく、昨日も朝は氷点下5度くらいでした。雪は、ここ豊野町浅野地区では例年と比較して、やや少な目の様子。
そんな環境の中でも元気に青々としている「野菜」です。
余り寒くなると、「しみる」って言いますが、まだスチックセニョールは「しみていない」様子。
昨年の10月頭に種まきし、10月末に定植したものです。
ここまで元気に育ってくれるとは驚きでした。
もともとは、母親が豊野町の農業委員のときに、九州に視察に行き、栽培が盛んで育てるのも比較的容易だったため、この地でも栽培を始めてみました。去年は春5月くらいから収穫が始まり、少しずつ農産物直売所「アグリ長沼」に出荷していました。2~3度新しい物を定植しましたが、ほぼ通年で収穫できました。

「サカタのタネ」で販売しています。
栽培方法も容易です。厳冬の今は種まきは無理ですが、春3月下旬くらいから種を蒔いてみたらいかがでしょうか?

いただき方は、「アスパラガス」と同じです。
歯ごたえもあり、味も良好。
今春の春巻き野菜にいかがでしょうか?

因みに先日、「もんぜんぷらざ」で販売しているのを見かけました。
束で200円くらいだったと思います。
熊本産だったかなあ?今もあれば是非味見を!!



雪の中のスティックセニョール
氷がついています。
ここ数日寒さが厳しいですが、元気な様子。


この茎の部分を湯がいていただきます。
寒いため、今は非常に成長が遅いのですが
この茎の部分を収穫すると、かなり遅いスピードで
次の茎が成長しています。


寒さが厳しいため「しおれ気味」
でも「しみて」はいないようです。
3人家族の我が家では、青物は今の「超スロー」のスピードでも
十分足ります。






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2008年01月20日

「ちょうま」 千曲川 その2

金曜日の晩は、新宿で学生時代の友人たちと飲み明かす。歌舞伎町辺りだと、土日なのでたいてい朝方5時くらいまでは営業している。
学生時代の友人たちは、結構教員になったものが多かったため、土日休みがほとんどであった。僕は、デパートに勤めたため平日休みで、土日は休めず、朝方まで語り明かすような飲みは無かった。卒業以来かもしれない。
土曜日の午後から千曲市の県立博物館で、信州ふれあい歴史講座
があり、千曲川通運の歴史の一コマを語る講演会があったので、急遽出た。
本当は、リンゴに桃に梨と剪定シーズンがスタートしているため、すぐにでも手伝わなければならないのだが、しばし時間をもらう。

江戸時代後期には、千曲川を使って、新潟と千曲川沿岸の小布施や松代・善光寺・上田に「塩」を中心とする物資を輸送しようという「壮大な計画」があったようだが、結局は、飯山以北は許可が下りずに、また信越国境の千曲川が船が通るには、非常に荒れていたため、飯山~須坂の福島間が中心の通運に縮小となってしまった。
それも信越線と飯山線が開通すると、千曲川の船の通運は役目を終えて次第に廃れていく。
ただ千曲川通運の歴史に関しては、まだ古文書が読み進められていないため、不明な点も多いようである。解明が待たれる。

子供の頃から「千曲川」を「ちょうま」と呼ぶんだと教えられた。
度重なる洪水による氾濫から「ちょうまは怖い」と教え込まれたため、小布施橋辺りではその「ちょうま」の岸辺に行き、直接「ちょうま」に入ることも、「ちょうま」の水に触れることも出来たはずであるが、
子供の頃から「刷り込み」にあった「ちょうまに対する感情」は到底ぬぐえない。
千曲川を恐れ、いくつもの祠を建て、暴れないように願った反面、その「ちょうま」を利用して、通運をしようという「壮大な計画」に感服する。

千曲川とは、良きにつけ悪しきにつけ切っても切れない関係にあった、善光寺平。人々が遠い昔から、千曲川(「ちょうま」)とどう共存共栄してきたかまだまだ奥が深そうである。
千曲川 立ヶ花~蟹沢付近
島崎藤村の「千曲川のスケッチの碑がある辺り。



最大の難所 山王島~浅野付近
約1キロにわたる「小布施橋」は沿岸部で2番目に長い。


千曲市の歴史博物館。
周囲にイチゴ栽培のハウスがあり、イチゴ狩りが楽しめる。






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2008年01月19日

大好きな町 新宿 その

所用があって新宿に。
新宿は、学生時代から通っている町。
歌舞伎町に代表されるように、夜の街でもある。
金もない学生にもかかわらず、学校が終わった後、よくのみに出かけた。時代遅れな学生だったかもしれないが、花園神社の隣りの「ゴールデン街」で朝まで飲み明かした。
みんな貧乏学生だったが、「洋物」には憧れがあったせいか、よく飲んだ酒は「ズブロッカ」。ウオトカの一種である。
「ズブロッカ」を飲もうと言い出したのは僕かもしれない。北杜夫に凝っていて、よく出てきた「ウオトカ」を飲もうと言い出したような気がする。
薬臭い酒を飲んで、夢物語のような話を朝までしたものである。
しかし、夢を追い続け、市会議員や国会議員の秘書となり、政治の世界に身を任せ、夢を実現しようとするものもいる。
「夢」は「夢」でなく、自ら実現していくものだと最近つくづく痛感する。いつまでも「夢物語」といて憧れのように描いていては進歩が無い。実現すべく追い続けるから「夢」なのだと思う。

昼間から、ゴールデン街では飲むわけには行かないので、小田急の横の通称「しょんべん横丁」へ。
ここは、24時間営業していて昼間でも酒が飲める。
仕事が休みの日、歌舞伎町にあるジムに通った後、よくビールを飲んだ。散々、汗を出し、身体をシェイプ使用としたにもかかわらず、ついついビールを飲んでしまった。
最近のビールは、。ジョッキで出てくるが、。それが本当に「ビール」なのか疑問になることがある。「発泡酒」に近いものがジョッキに盛られてくる。しょんべん横丁では、ビールは、「ビール瓶」で出てくる。冷えた瓶ビールをその場で、栓を抜いてくれる。
カウンターにビール瓶を傾け、周囲を見回しながら飲むのもオツなものである。
場所柄、西口の副都心で働くサラリーマンもいれば、高田馬場が近いせいか、現場での仕事が終わった作業服姿も多い。靖国通りを一歩渡ると、歌舞伎町だから、若い歌舞伎町勤めの今風の若者もいる。

ヴィトンやアルマーニを売る高級店もあれば、歌舞伎町のような水商売の店もある。はたまた、西口の京王帝都のバス発着場には、次々と地方から高速バスがやってくる。新宿が日本社会の縮図のようであれば、ここのしょんべん横丁も、人間の縮図のようかもしれない。
戦後の「闇市」の名残であろうから、しょんべん横丁は、戦後の日本の縮図を見続けてきたのかもしれない。

ビールは今回も瓶で出てきた。
周囲を見回しても相変わらずの風景である。再開発の声もいつの間にどこへやら。いつまでも残り続けるであろう「しょんべん横丁」である。
  


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2008年01月18日

冬場のコタツにて

今年は、雪がチラリホラリとは降るものの積もったりしていないので、田んぼの仕事もはかどります。
この辺りの農家では、リンゴの木の剪定がスタートしました。
田んぼには、たまねぎが・・・。

秋口、11月に田んぼに定植し、雪の中で越冬した後、雪解け水をグングンを吸い上げて、春先から一気に大きくなり、6月田植え前には収穫となります。

信州とくに、ここ豊野町浅野地区では、たまねぎ栽培が盛んです。インターネットでも、販売し、わかったことですいが、とにかくここ豊野町浅野産のたまねぎは、「やわらかい」そして、「甘い」というご意見をいただきます。
サラダに、オニオンスライスに最適な「たまねぎ」です。
たまねぎには、血液をサラサラにする作用があるとか。
都内で、20年近く生活し、散々毎晩お酒を飲み、食事もせずにいたため、いつの間にやら、血液ドロドロで、最後には、血液をサラサラにする薬まで飲んでいたような生活を送っていました。

こちらに帰ってきて、食生活も改まりました。
たまねぎのお陰でしょうか。
しかし、今度はまた危機が・・・。
「食べすぎ」により、スーツのパンツが入らない。
今までは、Y体、しかも「Y6」で十分に入ったものの、今は「A5」。
昨今の、「ボディコン スーツ」ブームを受けて、ちょっとピッタリ目のA 5となっています。

冬場の今、コタツに入り夜は新酒が美味い。
冬場は、日が短い分、コタツに座る時間が非常に長くなる。
お酒もつまみもどんどん進みます。
お酒も食事も「ほどほど」が良いようです。

冬場越冬中のたまねぎ。




朝のリンゴの木。
氷がついています。
ここ数日雪は多くないのですが、とにかく寒い。




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2008年01月17日

善光寺日記 その1

罰当たりなんですが、重い腰を挙げ、「善光寺」に参拝に行きました。
久しぶりの善光寺です。
駐車場は、善光寺裏の千鳥が池。昔ここは、一面池でした。ザリガニがたくさんいて、高校生の頃には、釣ったザリガニを「文化祭」で販売しました。ザリガニ釣りを覚えたのは、この池です。

善光寺に入ると、たくさんの灯篭があります。その灯篭の土台部分を見ると、「江州」とか「尾張」とか国名が入っているものが結構あります。善光寺の信者の方が寄付したもののようですが、全国から多くの方が訪れているのがよくわかります。

今は、7年に1度、「ご開帳」をしているようですが、江戸の頃は、「出開帳」といって、京都・大阪など各地を回って、善光寺のいわゆる「布教」といいますかしたようです。

今でも、「善光寺講」という具合に、全国から参拝客の方が訪れます。「日本旅行」という会社がありますが、ここはもともと「善光寺講」から成長していった会社だと記憶しています。

山門は、屋根が修理されたようですが、その昔この山門に登れたそうです。山門からの眺めは良かったでしょう。

山門の辺りに、昔は、煮た豆を鳩の餌に販売しているおばあさんがいましたが、もう販売していないのかなあ?小皿に盛って販売していて、よく鳩にあげたものです。懐かしい思い出です。

善光寺は、鳩と縁があるようで。
「善光寺」の「善」と「光」、「寺」の毛筆で書くとそれぞれの字の「点」の部分が、鳩形になるそうです。
ですから、山門の「善光寺」の額は「鳩額」と呼ぶそうです。

昨年は、小布施よりの田んぼに結構な量の「豆」を蒔いたのですが、芽が出てこれから成長するときに、ほとんど「鳩」の食べられてしまいました。善光寺の鳩がやってきてやられたなどといっていましたが、今年は食べられないように、網など張らないと・・・。
そういえば、高校(上松です。)の部室も「鳩」に占拠されて、「鳩小屋」などと言っていましたっけ。
平和の象徴の「鳩」。善光寺のシンボル「鳩」
なかなか共存は難しいようですが、お互いの「譲り合い」が大切です。
自然との「共存」で行きたいですね。
ただその「バランス」が難しい。


善光寺日記は、まだ続きます。



江州の字が読める灯篭。


山門。「賀正」の看板の上が、「鳩額」と呼ばれる善光寺の額。


善光寺のシンボル「鳩」



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2008年01月16日

蔵の町 須坂

ここ1~2週間、畑仕事の合間を縫って、小布施・須坂方面に出かけています。今日は「蔵の町 須坂」
須坂というと、「臥龍公園」くらいしか知らない私でした。
高校卒業後、都内で学生となり、19のときに須坂の自動車学校に行って以来でしょうか?随分とご無沙汰でした。
「蔵の町」というのは前々から聞いてはいたのですが、なぜ「蔵の街」かもよくわからずに、ずっと過ごしていました。ここへきて、重い腰をようやく上げて、なぜ蔵の街か?」ようやく判明しました。

千曲川沿岸部 河岸沿いは「黄金島」と呼ばれたように、夏は綿花、その裏作として秋から春に掛けては「菜種」という具合に、江戸の頃から盛んだったということは前にも書きました。もちろん、「稲作」がメインですから、農家の本業は稲作なわけですが、江戸も半ば以降は、「貨幣経済」が発達し、農家でも「貨幣」が必要となり、換金作物としての「綿花」や「菜種」が重宝されたわけです。
その「菜種」を大いに利用して商いをし、繁盛したのが「田中本家」です。

その後、明治期になり、「生糸」が重要な日本の輸出品として注目され、国策として、生糸生産が盛んになります。
江戸の頃から桑の栽培は既にあり、生糸の生産はされていたようですが、日本の基幹産業とならんと注目し、須坂に製糸工場を旗揚げして言ったのが、若き須坂の若者だったようです。
その若者たちが、率先して富岡製糸場の技術を導入し、須坂の製糸産業を盛り立てていきます。

こうして、「製糸の町 須坂」は成立し、その後様々な紆余曲折を経て、遂には昭和恐慌を迎えてしまいます。詳しくはまたご紹介するとして、こうした製糸産業と蔵が大きく関係しています。
蔵の街を歩くと、3階建ての建物や倉庫のような建物が目立ちますが、これは、「繭」を乾燥させるための部屋であったり、蔵は蔵でも、埼玉の川越の街のような「蔵」とはまた違い、要所要所に「製紙産業」の面影を見ることが出来ます。須坂の蔵は、製糸産業によってもたらされた蔵だったようです。

須坂は岡谷や諏訪よりも早く本格的な製糸産業をスタートさせました。当時、生糸は「山師的」な産業として、殖産興業政策により、推進はされたものの、みな二の足を踏んでいたようです。
須坂の「若き精鋭」たちの先見の明と普段の努力が、「製糸の町 須坂」を盛りてていきます。

なお、長野県は、国策として、「農家は桑の栽培と繭の生産を」を「企業は製糸産業を」といった具合に、戦前の日本の基幹産業である「製糸」のに大きく携わりますが、昭和恐慌により、一気にこの基幹産業は、閉塞し、壊滅的な打撃を蒙ります。
そして、更にこうした不況の打開策として、こちらも国策として進められたのが「満洲移民」で、長野県は、満洲移民移出日本一の県となりますが、それは大きな悲劇を生むこととなります。

満洲の移民と桑関係のことはまた次回に譲りますが、桜の咲く「須坂」もいいですが、冬景色の須坂も必見です。車でも簡単にいけますし、入場無料の施設も結構たくさんあります。
ぜひ「蔵の街 製糸の町 須坂」に足を運んでみたらいかがでしょう。

3階が繭の乾燥のために使われた蔵屋敷。


立派な門構えが、当時の繁栄を物語ります。


繭玉。繭玉の習慣は、桑を栽培していた北信地方には結構あるようで、我が豊野町でもありますが、ここまで「リアル」な繭玉は珍しいのでは?製糸産業の面影を伝えてくれます。



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2008年01月15日

アラレと干し柿

この時期になると、「ボタ雪」というより、厳しい風が吹き、サラサラした「雪」が吹雪くという感じになります。気温は非常に低いのですが、「乾燥」しているのがこの時季の特徴です。
こんな時季にふさわしいのが、お正月に飾った「お飾り」餅と「干し柿」です。

お正月に使った神棚に供える餅は、「お飾り」とこの辺りでは呼び、松が明けてから、徐々に、加工に入ります。加工といっても、ひびの入った「お飾り」を更に細かく砕くか、細かく乾燥するのを待ち、一口大にし、それを、油で揚げ、そのあと「砂糖醤油」でまぶし、「アラレ」にします。
子供の頃は、これが絶好のおやつでした。
祖母が中心となり、この「お飾り」を使った「アラレ」を作るのですが、砂糖醤油が万遍に、行き渡らず、どっぷりと「砂糖醤油」に浸かっている箇所もあれば、ほんの少ししかかかっていないところもあり、それが素人にいいところでもあるのですが、甘いものが食べたい子供には、味がしない箇所は、決して食べなかったような気がします。

毎日50円のお小遣いをもらっており、その50円もあれば駄菓子屋にいって、好きなお菓子が結構な量で買えた時代ですが、なかなか「物を買う」と言うことを許してもらえずに、自分のに家にあるものをなるべく代用するように祖母からきつく言われ、なかなか子供の僕にとってはそれが「不満」でした。
さておやつの代用の「アラレ」は、結構子供の僕に重宝され、何とか、お菓子を買わずにすんだのですが、「干し柿」はだめでした。どうしても、「干し柿」が好きになれずに、おやつに干し柿を食べるように言われても、食べなかった記憶があります。

結局、「干し柿」は食べず嫌いで今日まで来てしまいました。
今は、一歩外に出ると、季節を問わないお菓子がたくさん出回り、甘いものが大好きな僕にとっては、非常にありがたい限りです。
季節の風物詩というより、「珍しい」とまで言われるようになってしまったこの自家製の「干し柿」と「アラレ」。ご家庭でこしらえる方はどのくらいいらっしゃるのでしょうか?
再度自家製の「干し柿」と「アラレ」を今年は噛みしめたいと思います。<自家製の干し柿とお飾り。
干し柿は、市田柿のように「奇麗に」粉がふいていません。
これも「自家製」のいいところ?




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2008年01月14日

ドンド焼き

豊野町の浅野地区の小正月といえば、「ドンド焼き」である。豊野地区では成人式は、お盆に行なう。長野市に合併しても変わりないようで、夏の帰省シーズに併せての成人式である。成人式のことは、次回に譲るとして、今日は、「ドンド焼き」。

ドンド焼きは、「三九郎」とか「ドウロクジン」とも呼ばれている。
ここ豊野町の東部地区では、専ら「ドンド焼き」。
三九郎は、信州の真ん中の安曇野あたり出の呼び名のようです。「ドウロクジン」は、「道祖神」が変化したもののようですが、豊野地区では、最北の「川谷地区」に道祖神が1つあるようですが、余り見かけません。道祖神は、そもそも村の境にあり、他村からの疫病神等の「災難・侵入者」を防ぐという意味から祭られたものですから、もう少し豊野の村にもあってよさそうだと思うのですが、見かけません。従って、「道祖神」を余り見かけない豊野町東部では、「ドンド焼き」と呼ぶ場合が多いようです。


さて、「ドンド焼き」ですが、「ジジ」と「ババ」という藁を主体にした「円柱状」のご神体を2つ作ります。そこに昨シーズンのダルマさんだとか、お札等をくくりつけ飾ります。「ジジ」と「ババ」のご神体は縄で結び、その縄には、ダルマさんをくくり付けます。
ドンド焼きのそもそもは、災難や疫病神が村に入ってこないようにという願いから行なわれる年中行事ですが、あくまで主体は、「子供」になるので、子供の頃から私は、
「ドンド焼き」で焼いた餅を食べると、風邪をひかないtか、お正月に書いた、書初めを燃やし、その燃えがらが高く上がったら字が上手になるという具合に、あくまで子供にとっての意義が強調され、「火」を扱うものの「子供の行事」でした。

かつては、この2つの「ジジ」・「ババ」のご神体も子供達が作っていたようですが、僕らの頃は、既に大人たちが前日の日にこの2つのご神体を作ってくれていました。

ドンド焼き自体を行なう場所がかなり減ってきました。路面がアスファルトの場所では、アスファルトが溶けてしまうので、どうしても路面が土で且つ、火を燃やしても安心な広さでなければいけません。

組の子供の班長が主体となり、子供中心の行事から、行事を維持しようとしなければならないため、「大人」がかなり入り込んだ行事になりつつあります。場所の面でも運営する面でも、地域における伝統行事の維持継承が難しくなるつつあります。
小さな伝統行事をいつまでも続けたいものです。

鳥居川の土手に作られた今年のドンド焼きのご神体。

6時半に点火。




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2008年01月13日

小布施の脛石。千曲川 その2

小布施橋を豊野方面から渡ると、山王島の交差点となり、まっすぐに行くと、小布施の町内、右折すると須坂方面に向かいます。左折して100メートルくらいでしょうか。右手に「神農社」という小さな神社があります。
その神社の中にあるのが、この「脛石」です。
江戸時代半ば辺りから、千曲川に船を通わせ、新潟の物資を千曲川をつかい、運ぶ動きが出てきます。そのことは、北国街道の街道筋を中心に、陸路の通運が千曲川の水運にといって変わることですから、「猛反対」され、何度となく、流産したようですがようやく許可され千曲川の水運の歴史はスタートします。
その千曲川の水運をつかい、新潟を中心とする「塩」などの物資を運んだのが高井家のようです。ただ、この許可された船便を使ったのか、船便をチャーターして、新潟から塩を運び込んだまでは、まだ調べていません。
「脛石」の碑文によると、江戸の頃、稲作の終わった秋口に新潟から、千曲川の船に乗り、出稼ぎに来たお百姓が、この脛石に乗り、「脛」を見せ、脛の太さや細さ等の具合によって、冬場の出稼ぎ現場をきめられたとあります。江戸の頃には、川東では、菜種栽培が盛んだったようで、菜種は、江戸期にランプ用の油として、また肥料として重宝されたようですが、まだ菜種の咲く春には早いような気もしますし、製糸の町「須坂」が賑わいを見せるのは、日本の産業革命がスタートする頃ですから明治の半ばあたりから、須坂の町は活気付いたのではないかと思います。
そうすると、秋口に脛石で選別された、新潟のお百姓さんたちはどこで働いたのかなあ??と思うのです。小布施に4件もあった造り酒屋さんかなあ?造り酒屋さんなら、酒の仕込みは、11月頃から始まり、北信濃の厳冬を通して、働けますから。
菜の花が一面に咲き、ノンビリとした冬から春を過ごした、信州北信濃の田舎のように思っていましたが、まさか江戸の頃から、新潟からお百姓が来て、人足市場があったとは・・・・。







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2008年01月12日

ショッピングセンターの閉店

1月6日をもって、国道18号線沿いのショッピングセンター「アップルパーク」が閉店しました。ショッピングセンターには、核店舗として、スーパーの「マツヤ」、ホームセンターの「綿半」が入っており、他に酒屋さんとか、洋品やさん、クリーニング屋、薬局などが入っていました。
昨今の、郊外型大型店の展開で、中心街の自営を中心とする「商店」は大方閉店してしまい、シャッター街となってしまいました。

豊野町でも、JR豊野駅を中心とする、界隈に商店が軒先を並べていたのですが、布団やさんが閉まり、銀行が移転し、といった具合に往時の面影は全くありません。
豊野町東部の浅野地区になるともっとひどくて、かつて我が家の周辺には、酒屋さん・菓子屋さん・農協が経営するスーパー、タバコ屋さんと商店が多数ありましたが、今は先にあげた店舗は全て店しまいし、全くのシャッター街となってしまいました。
2代目が跡をついで経営しても、「商店」として成り立たなくなってしまったようです。

原因として、郊外型大型店の開業も挙げられますが、消費者のニーズの多様化に、個人商店では対応できなくなった側面もあると思います。個人商店では個人商店ならではの「ふれあい」があり、「地産池消」ではありませんが、地物を優先して販売する、季節ならではの商材が揃っていました。
けっして、個人商店では、前に大型スーパーで販売されている、冬至の南瓜が「メキシコ産」だったことを書きましたが、メキシコ産の南瓜は、並びますまい。

豊かさとは、消費であり、この地で揃わないものを輸入までして、この時季頂き、味わえることも、「豊かさ」といえるのかもしれませんが、四季折々の地元の食材を料理し、地元の伝統や食文化を伝えていくことも「豊かさ」なのではあるまいかと思う昨今です。
ネコヤナギの目が膨らみ始めたことを書きましたが、もう暫くすると雪解けの合間から「フキノトウ」が生え、菜の花の時季となります。菜の花を煮たり和え物にするということも是非またしたいと思います。

かつて、豊野・小布施の千曲川沿岸は、「黄金島」と呼ばれたほどの「菜の花」が栽培された地域です。菜の花の栽培の歴史についてはまた次回にお話しするとして、しばらくは、越冬用に作った自家製の「干し柿」などいただきたいと思います。


閉店して解体作業が進む、「アップルパーク」


隣にあった菓子屋さん。
よく子供の頃、おやつに食パンにバター(マーガリンだったかなあ??)とジャムをたくさん塗ってもらい、食べたものです。





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2008年01月11日

ネコヤナギの芽 膨らむ

年末に降った雪も融け、庭を散策。
ネコヤナギの木に、小さな「芽」を見つけました。
ふっくらとふくらみ、もう少しで、あの「かわいげなネコヤナギ」の芽が見られそうです。
リンゴ畑では、剪定の準備がスタートしました。厳寒の中、これから暫く、リンゴを中心に、桃・梨の剪定がスタートします。
昨年も、厳冬の中でのスタート。もう1年になるんですねえ。
早いものです。
早めに田んぼに出かけ、随分と日が長くなりましたが、早めに切り上げ、近くの小布施温泉か、豊野温泉に出かけましょう。その後は、古漬けっぽくなった「野沢菜」と今年の新酒でノンビリと過ごそうかと思います。

母親が高校時代の友人たちと、沖縄旅行に出かけたため、暫く父親と二人暮しです。僕は、のん兵衛のため、夕飯はいただかないのですが、酒を飲まない父親には、夕飯の用意しなくては。
酒のつまみのようなものではいけないし、余り油濃いものは好きでないようですし、近くのスーパーは閉店するし、悩みが多い。

新聞に、塩崎元官房長官の料理のことが書いてありましたが、いくら20年近く一人暮らしはしていたものの、そこまでは凝れない私です。
父親には申し訳ないのですが、魚を中心にした、塩辛いつまみ兼おかずで我慢してもらいましょう。
母親の旅行は1週間。1週間も夕飯の準備、続くか心配ですが・・・。




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