先のアジア太平洋戦争中、
長野県は首都圏の小中学校の疎開先として、
多数の小中学生を受け入れました。
東京元浅草に生まれた永六輔さんも小諸に疎開し、
地元の学童からいじめられたという話は有名ですが、
父母と離れ、毎日異郷の地で過ごすということは
小学生にとってはさぞや辛かったことと思います。
先日、戦時中を知る近所のおじさんと疎開の話が出ましたが、
ここ長野市豊野町でも学童の疎開を受け入れたそうです。
当時、今の豊野町は、戦後合併する以前
西部地域を「神郷村」、東部地域が「鳥居村」に分かれていました。
多くの東京からの学童疎開は、志賀高原のふもとの山ノ内町の
湯田中温泉や渋温泉で受け入れたそうですが、
余りの温泉郷への集中疎開で、食糧問題等の弊害が出て、
再度、山ノ内町地区から、北信(長野県の北部、長野市以北の地域)に分散して、疎開がなされたそうです。
旧鳥居村では、豊島区の高田地区の約120名ほどが、
再疎開し、男子は、浅野地区のお寺 正見寺に
女子は、そのお寺のそばにある公会堂に疎開したそうです。
豊野町町誌など、文献を調べてみたのですが、
疎開のことは余り載っておらず、
詳しい生活の様子はわかりかねるのですが、
写真の公会堂で、約7ヶ月間という短い期間であたものの、
疎開生活がなされたようです。
その女子児童が疎開した中町公会堂は、
曹洞宗のお寺の宝蔵院の隣にあります。
宝蔵院には、ミャンマー(旧ビルマ)のインパール作戦に従軍して、
奇跡的に助かり帰還した方が中心となり、
二度とこのような戦争が起きぬ様にと、
平成の時代に「平和の鐘」が設置されたお寺です。
その宝蔵院の隣にこの「中町公会堂」が位置し、
都会生まれの女子生徒が親元を離れ、寝起きしたのです。
何とも頼りない建物での女子生徒50名ほどの
まだ親が恋しい子供達のとっての集団生活は、
さぞやきつかったことと思われます。
せめてもの救いは、当時、ここ豊野町東部の鳥居村地区では、
米も野菜も果物も首都圏と比べ流通していたはずで、
空腹に悩まされたということは無かったのではないかと推察します。
戦争中当時の様子を伺うことが出来る方々が、
かなり高齢となってきました。
高齢の方々が積極的に戦争について
語ることは少なくなってきており
我々現役世代が少しでも多くの方と出会いお話を伺って、
後世にこのようなことが二度と起きないように
戦争の悲惨さをリレーしていく時代となりました。
長野県は、蚕を中心とする生糸産業(工業・農業ともに)が
日本で一番盛んで製糸・養蚕産業への偏重の余り、
生糸の価格の暴落による手痛い打撃のため、
市街地も農村もおおいに疲弊しました。
それが一つの要因となり、
結果的に多くの満洲への移民を、
「長野県の政策」として出さざるを得なくなり、
満洲移民が全国で一番多かった県です。
そして結果的に満洲への移民は
戦後に多くの悲劇を生みました。
戦争を実際に経験していない世代が、大半となり、
僕たちは、「当たり前のように」豊かな時代を謳歌しています。
8月は広島長崎への原爆投下
そして終戦・敗戦がありました。
二度と戦争を起こして欲しくない、
おこしてはいけないという見地からも、
戦争についての長野県での様子も
学び調べたいと思う昨今です。
曹洞宗のお寺「宝蔵院」の隣にある公会堂。
ここで女子生徒50名が疎開生活をおくりました。
宝蔵院の境内にある「平和観音像」
インパール作戦に従事した地元の方が建立されました。
平和観音像の横にあ平和の鐘の下に位置する「不戦の伝言」
この伝言がいつまでも伝わるようにしたいものです。
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