新聞によると群馬県の富岡製糸場が
世界遺産に申請されるそうである。
富岡製糸場は、日本史の教科書でも習ったように
追いつけ追い越せの明治時代の殖産工業の先導的模範事例としてとして
時代の先端を行くものであった。
信州からも松代藩から、上級藩士の娘横田英が富岡に赴き
機械化された製糸産業を「女工」として習得し
信州に戻った後は、教師役として、活躍をした。
日本の中でもどちらかと言うと「後発組」だった信州長野県の製糸産業は
そのたゆまぬ努力と勤勉さで、先発していたの福島・群馬を追い越し
原料生産・製品生産ともに日本一となっていく。
また、桑畑はかなりの「傾斜地」でも栽培が可能であり、
広大で平坦な農地が少なかった信州では
そんなことも桑栽培を盛んにさせた理由の一つである。
しかしながら、昭和の初期からの不況と
その後の世界恐慌、
及びストッキングに使用する繊維が
「絹」から、「ナイロン」に
変わることが、信州どころか
日本の国全体を、大きく変えることとなる。
こんな不況の煽りを一番受けたのが
蚕糸王国信州で、「絹」という繊維を作っっていた
岡谷や諏訪・須坂であり
原料の「繭」を生産していた
県下一円の農家で、いずれも一大打撃を蒙ることとなった。
信州の農家は歴史を紐解くと
大概が桑栽培・養蚕を生業としていて、
大打撃を蒙ったように
我が家も養蚕産業の一翼を担っていて、窮乏することとなる。
こうした県下各地の農村不況・疲弊を打開したのが
いわゆる「満州移民」である。
国として県として、長野県からの満州移民を
積極的に奨励し、農家次男坊を中心に旧満州に
開拓移民として送り込むこととなった。
「満蒙は、帝国の生命線」という言葉が
そのことを物語っている。
蚕を飼っても、金にならず
現在のように、リンゴや梨のようなくだもの生産もままならず
桑栽培が盛んだった信州の農村
及び製糸産業に大きな重きをなしていた長野県全体が疲弊していたのだ。
結局のところ
農村での「余剰な人員」を整理する意味もあり
また、次男・三男坊の働き先として信州は、全国で一番、満州への移民を
排出せざるをえなくなる。
満州への開拓移民と言っても
歴史の教科書で周知のように、
「王道楽土」とか「五族共和」と言うフレーズは
なかなかその通りには行かなかったようである。
そして何よりも悲惨であったことは
防衛してくれるはずがいち早く逃げた関東軍に代わり
ソ連の脅威からの防波堤として
壮青年の開拓移民が現地で召集され活躍せざるを得なくなり
残されたのは、老若男女となったことだ。
こうして、ソ連の侵攻により、着の身着のままで逃避行を開始
婦女子も最終的には、下高井郡の「高社郷」に見られるように
移民した村全体で自決という
悲劇もうんでしまった。
満州からの逃避行でに関してその様子は、
「国家の品格」を著した藤原正彦さんの
ご母堂の藤原ていさんの
「流れる星は生きている」などでも詳しい。
さて。こうした「満州への移民の悲劇」を
如実に物語っているのが
昨年春に長野県立歴史館で企画された
「三つの大日向村」展である。
3つの大日向村とは
同じ大日向村という村が、
3回も村自体が移動していることを指す。
昭和初期にあった「南佐久郡」の1つ目の大日向村は、
先ほど述べた昭和恐慌の煽りを受け
村の一部を「分村」として
満州に村民を送り出す。
満州に分村した2つ目の大日向村は
ソ連の侵攻とともに崩壊し
日本への引き揚げ・逃避行となる。
満州への分村を出した1つ目の「南佐久郡」の大日向村には
本国に帰ってきても既に、満州へ分村移民した2つ目の大日向村の人々を養う「余裕」が無く
やむを得ず、満州から引き上げた人々は
3つ目の大日向村を浅間山麓の軽井沢の原野に
まさに開拓をして、3つ目の大日向村を誕生させる。
このような3つもの村を
作らざるを得なかった状況と環境、
今でこそ信州は
果樹栽培が盛んであるが
こうした大きな悲劇・苦労を経て
今日があることを忘れてはならない。
どうして、場所を変えて
3つもの「大日向村」を作らなければならなかったのか?
先人たちが苦労して
今日の長野県農業の礎を作り上げた。
同じ農業をするものとして
こうした「事実」を忘れてはいけないと思っている。
2012年春の長野県立歴史館の企画展のリーフレット
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