小林一茶を身近に感じる。
昨日のブログで
越後からの冬の出稼ぎ人が
小布施の高井鴻山の生家市村家などに
奉公に来たことを書いたが
もちろん、信州人が冬場
この地で出稼ぎに行かずに
済んだのでもない。
信州人は江戸の頃には
収獲が終え冬場に近づくと
江戸に奉公に出たようである。
信州人の江戸でのイメージは
「ムクドリ・大食漢」だったそうである。
リンゴ畑で
常用の草刈機に乗って
草を刈っていると
刈った後から
直ぐに虫をついばみに来る
くちばしが黄色い鳥がムクドリである。
ムクドリは
草を刈った後に、待ち構えていたかのように
やってきて虫をついばみ始めるし
もちろん信州のリンゴもついばんでしまう雑食性の鳥だ。
そんなことから
「大食い・食べてばかりいる」のイメージから
「ムクドリ」と揶揄されたのかと思ったら
その泣き声の「ギャーギャー」がうるさく
都会に出ても大声で話し
ギャーギャー騒ぎうるさいから
「ムクドリ」と揶揄されたのだそうだ。
何だか信州人のイメージが
崩れそうな気もするが
実際問題
江戸の頃にそう呼ばれていたのであるから仕方あるまい。
さて、そんな奉公人の一人に
信州の俳諧師小林一茶もいた。
一茶は、冬場の一時的な出稼ぎではなく
継母との折り合いが悪く
江戸に奉公に出ている。
一茶は江戸で俳諧を学び
「師」として教授して廻るようになるのであるが
どうも「ムクドリ」 「大食漢」と蔑まされるのがいやだったのか
「信州人」としての出自は
名乗らずに隠していたようである。
僕が、東京で学生となり
弁論部に入り
先輩からどこの出身かと問われ
「長野県」ですと応えると
ひげ面(づら)の学ランを着た先輩は
「信州の山猿か」とからかったものである。
江戸の頃には
「ムクドリ」であったものが
20世紀の後半には「山猿」になっていた。
因みに、江戸時代には「山猿」は
山梨県人を呼ぶ言葉であったらしい。
僕は、「ムクドリ」ではなく
「山猿」と呼ばれ1.2年生を
過ごしたのであるが
一茶は出自を隠したまま
信州に戻ってきたらしい。
信州に戻り
北信濃各地を今度は
俳句を教え生計を立てたのであるが
そんな一茶の句碑に出会う機会が
昨今非常に多い。
ムクドリと呼ばれずに
江戸で過ごし通した一茶。
1.2年生の頃は「山猿」と呼ばれた私・・・・。
ちょっと一茶には、
やきもちを焼きたいしずるい気もするが
江戸での俳諧文化を
北信濃一体に広め
今日その足跡は計り知れないものなのであるから
許さざるを得ない。
更に、最近僕が学生のときに教わったフランス語の教師嶋岡晨さんが
小林一茶の本を著していたことも判明した。
嶋岡さんには、僕はやっとのことで単位をもらうほどの
問題児で感謝せざるを得ないのであり
一茶には何かの由縁も感じざるを得ない。
さすがに、3年生ともなると
「山猿」とは呼ばれなくなったが
それにしても一茶
上手くやったなあと痛感する次第である。
長野市赤沼にある一茶の門人の句碑
一茶の門人は
赤沼はもとより、豊野・高山・湯田中と実に幅広い。
高井富士こと高社山
豊野から、赤沼から、湯田中からも見える北信濃の
象徴的な山である。
各地を歩き回った小林一茶も
この山を仰いだことであろう。
旧豊野町役場前にある
一茶の門人 峯村白斎の句碑
白斎は、江戸後期に豊野で活躍した
俳諧師匠で一茶の門人でもある。
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