千曲川に時代の流れを思う。
我が家の畑のそばに小布施橋が架かっています。
小布施橋はその長さがが1キロの長さもあり、
千曲川も小布施あたりでは、いかに河川敷が広く、
川幅もあり、ゆっくりと流れているのかがわかります。
この川幅が、立ヶ花あたりになると
急に狭くなってしまいます。
1キロほど川上の小布施橋辺りでは
ゆっくりと流れていますが
顆粒の立ヶ花橋辺りが川幅が狭いと言うことは
流れが急になります。
この川幅が狭くなっているため、
大雨が何日も降った場合
急に川幅が狭くなるので、そこで水が詰まっていきます。
この立ヶ花の「狭乍部」があるため、
大雨のときに、立ヶ花あたりで水が詰まり、
詰まった水はどんどん広い小布施近辺の河川敷を飲み込み
広い小布施橋あたりでも東と西の堤防間で、
水で満杯になります。
千曲川には、大小の河川が、流れ込みますが
ひとたび千曲川が上記のように満杯となると
支流の河川から、水が流れなくなり、逆流していきます。
淺川・篠井川・松川・百々川・鳥居川等々
小布施橋から立ヶ花橋にいたるまでもこれだけの河川が
千曲川が満水になると、逆流の危険が生じてきます。
そんな危険な千曲川。
過去にも何度となく洪水を起こし、近隣の農民をはじめ
人々を苦しめてきました。
僕も確か高校1年生の時と記憶していますが
千曲川が大雨の水で溢れそうになり
千曲川の恐ろしさを痛感いたしました。
今の時期は洪水に心配もなくゆったりと流れています。
そんな記憶もあり、
「千曲川」に対しては「恐怖感」のようなものが
潜在的にあるのでしょうか、
千曲川で水遊びをしようという気には、一切なれません。
そんな恐怖をも与える千曲川ですが
江戸の末期から明治にかけて
「千曲川通船」なるものが登場し
信越線や飯山線と言った鉄道が開通するまでは
江戸の頃からの従来の北国街道や飯山道に代わり
通運上の交通の要にもなりうるはずでした。
「成りうるはずでした。」としたのは
色々調べてみても、
この千曲川通船は期待以上の通運上の
役割を担うことがなく
次の交通の要である信越線や飯山線の鉄道に
交代していったようです。
新潟から千曲川を遡上して長野や上田など
「船」の交通網が直接繋がっていれば
もう少し今の文化や食生活も
新潟風??に変わっていたかもしれません。
豊野の蟹沢あたりにも飯山行きの、通船の
船乗り場があり、明治の初めには
島崎藤村もこの千曲川の通船に乗ったようです。
ひとたび洪水となると、脅威となる千曲川ですが
船でゆったりと松代から飯山間を
往来できる時代もあったのです。
善光寺詣でに今では車を使ったり電車で行きますが
千曲川を船を使って、上下し
善光寺に詣でるなんて時代もあったようです。
洪水の恐怖に散々さらされつつも
脅威でもある千曲川を、「通船」という船によって
千曲川の飯山~松代間という短い距離ではありますが
「利用しよう」としたかつての人々に
敬意を払いたいものです。
今、時代は変わり、千曲川には北陸新幹線の
橋げたがいとも容易に架かっていて
2014年の北陸新幹線の開通を待っています。
歩いて・・・
馬に乗って・・・・
船に乗って・・・
蒸気機関車に乗って・・・
そして新幹線で・・・、時代の流れには驚きます。
立ヶ花橋近辺の千曲川
川幅は、200メートルくらいでしょうか。
この立ヶ花あたりで、水はどんどん詰まっていき
小布施から南の広大な河川敷が水で満杯になっていきます。
通船のことを物語る看板が長野市豊野町蟹沢の
東曾峰公園にあります。
公園内には、島崎藤村の千曲川の小説の一文を刻んだ
碑があり、このあたりから、飯山まで
藤村が千曲川通船に乗ったことが記されています。
広い千曲川河川敷小布施橋周辺。
右真ん中の小さな橋が小布施橋。
小布施橋は総延長1キロ
河川敷もやはり広く、このあたりの千曲川は川幅が
かなり広いです。
善光寺平のくだものたち リンゴ・桃・梨
信州のくだもののある生活をご一緒に
地球に優しい、環境にやさしい農業を目指して・・・・・・・・長野県環境にやさしい農産物認証を取得しました。
美味しい信州ならではの産直サイト
長野の桃 梨 りんごの産直 信州北信濃 坂爪農園
信州ギフト
ランキングに参加しています。
クリックしていただけると幸いです。
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
関連記事